深ヨミ浅ヨミ、大人ヨミ

この愉しさ、オトナの特権。コドモ時代には分からなかったアレコレ。

『デス・ビリヤード』 やっと観ました。『デス・パレード』の前身作

 

 

“死”という言葉に対する認識は、子供時代と、大人になってからでは随分と違う。

 

私にとって、小さい頃のそれは「夜中にトイレに一人で行けない」感じと

似ていたような気がする。底知れぬ不安、漠然とした根拠のない恐れ。

 

 

 

いろいろな経験を重ね、さまざまな感情を覚え、相当の大人年齢となった今では、

“死”は「空想上の怖いこと」ではなく、やがて自分にも必ず訪れる「現実の事象」

だと知っている。まだまだ達観の域ではないけれど、きちんと人生の階段を進んで

きた成果のひとつのような気もして、ちょっと安心する。

 

じゃあ死んだあとはどうなるのだろう?

 

「いいことをしたら天国へ、悪人は地獄へ」。

「生まれ変わって、またあの人と…」「次は今と違う生き方をするぞ」という

来世への想い。

 

決着のない問答は尽きることがない。

 

 デス・ビリヤード』はリドル・ストーリーだ。

 結末は明言されていない。意味ありげな表情も、聞きとれない会話の中身も気になる。

 しかし、観た者に委ねられたのは果たして「あの二人の行き先」だけなのだろうか。

 

 死の先にあるもの。

誰も知らない未知の世界は誰だって怖い。

エレベーターの行き先が「天国か、地獄か」

あるいは「転生か、否か」の2択だったとして、

どちらが“本当のハズレ”なのかも、わからない。

 

わからないから、私には想像さえできない。

わからないから、2択のどちらも“得体が知れずに怖い”という意味では

大差ないのかもしれない。

 

しかし、死の直前、人生を振り返った瞬間に浮かぶ表情や感情は

それこそ人によって千差万別だろう。

自分は、どうありたいだろうか。

どんな表情でその時を迎えるのだろうか。

 

「終活」ブームにのってお墓や身辺整理のことばかりが話題になるけれど、

目指す“最期”を目標に毎日一瞬一瞬の積み重ねを精一杯生きること、

それこそが、生きている間にしかできない、とても大切な「終活」かもしれない。

 

デス・ビリヤード』は観る人の立場や年齢、状況によって

大きく印象が変わる作品だ。

「死」から始まるストーリーなのに、いつの間にか「生きる」ことを考えされられる。

「今の自分」を試されている気がする。

だから、10年後に、もう一度観たい。